
いつの時代も霊性向上の指導者は、どうすれば門下生の霊性を高められるか。そして、その教えを後世に残せるかを考えてこられたと思います。
過去の聖人の残した教えには、霊性向上のヒントが詰まっています。
ここでお話しさせていただく、浄土宗の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)の「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」には、「信じて、行う」という霊性向上に大切なことが書かれています。
もし霊性向上の勉強をしても、「霊性が高まっていないのでは」と思ったら、法然上人の一枚起請文を読んで、自分の「信じて、行う」を確かめると良いと思います。
私は浄土宗ではなく、法然上人について詳しいわけではありません。けれど、この一枚起請文をはじめて読んだとき、「ここには、霊性向上にとって、とても大切なことが書かれている」と思いました。
ここでお話しするのは、浄土宗の教えそのものの解説ではなく、私が「霊性向上」という視点で、この文章から学んだことです。法然上人のことを語るのはおこがましいのですが、失礼を承知で、お伝えいたします。
一枚起請文とは
一枚起請文は、法然上人が亡くなる2日前(1212年)に、弟子に請われて書き残したとされる、短い遺言のような文章です。
たった一枚の紙に、念仏の教えの要が、やさしい言葉でまとめられています。長い経典ではなく、最期に「これだけは」と託された言葉だからこそ、大切な事が凝縮されているのだと思います。
原文(全文)
まずは、全文です。
唐土我朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思いとりて申す外には別の仔細候わず。ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。証のために両手印をもってす。浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。
建暦二年正月二十三日 大師在御判
現代語にすると(私の意訳)
中国や日本の智者たちが説くような、心を深く見つめる「観念の念仏」ではありません。学問を積んで念仏の意味を悟ったうえで唱える念仏でもありません。ただ極楽往生のためには、「南無阿弥陀仏と唱えれば、必ず往生できる」と疑いなく信じて唱える。それ以外に、特別な事情は何もありません。
「三心(さんじん)」「四修(ししゅ)」という大切な心構えも説かれますが、それらもすべて、「南無阿弥陀仏で必ず往生する」と思い定める、その心の中に、おのずと収まっています。
もし私が、これ以外にもっと奥深い教えを隠し持っているのなら、お釈迦さまと阿弥陀さま、二尊の慈悲から外れ、本願からも漏れてしまうでしょう(=隠している奥義などなく、これがすべてです)。
念仏を信じる人は、たとえ仏教を深く学んだ人であっても、「自分はひと文字の経文も知らない、愚かな身だ」と受けとめ、学問のない人と同じ心に立って、賢い者ぶることなく、ただ一筋に念仏を称えなさい。
この教えに偽りのない証として、両手の印を押します。浄土宗の信心と実践は、この一枚に説き尽くされています。私(源空=法然)の考えはこれ以外になく、死後に誤った解釈が広まるのを防ぐため、ここに書き記しました。
原文は浄土宗公式サイトの解説記事から確認しました。一枚起請文そのものの詳しい解説は、こちらが参考になります。
→ 浄土宗新聞「日々のおつとめ」第10回 一枚起請文(前半)
→ 浄土宗新聞「日々のおつとめ」第11回 一枚起請文(後半)
この中の次の一文は、法然上人が一番伝えたかったところだと思います。とても大事なことが書かれています。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思いとりて申す外には別の仔細候わず。
「南無阿弥陀仏と唱えれば必ず往生できる、と疑いなく信じて唱える。それ以外に、特別なことは何もない」。この一文に、霊性を高めるコツが詰まっています。
「ただ唱えればいい」ではない
私自身、霊性向上の勉強をする前は、誤解していました。
往生とは、悟りとも言い換えられると思います。ですから私は、「南無阿弥陀仏と唱えるだけで悟れる、と説く教えなのだろう」と思っていました。
きっと、多くの方が同じように勘違いしているのではないでしょうか。
「南無阿弥陀仏だけでいいんだろ。簡単だよ」
「はい、南無阿弥陀仏。……はい唱えた。これで往生できるんだろ?」
「こんなんで往生できるなら、世話ないよね」
そんな声が聞こえてきそうです。
でも、よく読んでみてください。書かれているのは、「うたがいなく往生するぞと思いとりて」唱える、ということ。つまり、「南無阿弥陀仏と唱えれば必ず往生できる」と疑いなく信じたうえで、唱えるのです。
ただ唱えるだけではありません。信じることと、唱えること。この2つがセットなのです。
「信じる」は、難しい
「南無阿弥陀仏と唱えれば、必ず往生できる」ということを、正しいと信じ、少しも疑わない。そのうえで唱える、ということです。
これは、とても難しいことだと思います。
信じるというのは、盲目になって信じ込むこととは違います。マインドコントロールされて、無理やり信じ込まされている状態は、目をつぶっているだけで、信じているわけではありません。
落ち着いて考えて納得したうえで、その物事が本当だと思えること。それが、信じるということです。
死後の世界は分かりませんから、根拠は「法然上人がそう言ったから」でしかありません。その根拠をもとに、落ち着いて、それでも真実だと思えることです。
そして、疑いなく信じるということは、それが当たり前と思える状態でもあります。
- 水を飲まないと生きていけない
- 火は熱い
そんな当たり前の一つに、「南無阿弥陀仏と唱えれば、必ず往生できる」が並ぶわけです。
霊性を高めていくと、体の感覚や意識の変化、修行とともに現れるさまざまな不思議な体験を繰り返しながら、目に見えない世界があることが、次第に分かっていきます。そうしているうちに、指導者の言うことが真実だと分かるようになります。
それでも、見えない世界のことです。法然上人が、遺言のようなこの文章にこのことを残したのは、修行を積んでも「信じる」のはなかなか難しい、重要な課題だということなのでしょう。
修行とは「行い」
そして、信じたうえで「行う」ことです。
修行は「行(ぎょう)」と訳すことがあります。修行とは、教わって(修めて)、そして「行う」ことです。
浄土宗を信仰している方であれば、「必ず往生できる」と信じて、南無阿弥陀仏と唱えることです。
霊性という言葉を使えば、霊性を高めたいと思い、高め方を教わり、それを信じて、教わった通りに行うことです。
指導者と同じ方向を向き、信じて行うことで、指導者の霊性の影響を強く受けることになります。教えの枠の中に入り、その教えそのものが持つ霊性にも、自らの霊性が引き上げられていきます。
法然上人のお弟子さんであれば、法然上人の教えを信じて南無阿弥陀仏と唱えることで、法然上人の霊性に引き上げられて自分の霊性が高まります。
「霊性が高まらない」と悩まなくていい
ここからは、霊性向上の勉強を進めた先の話になります。
修行をしていると、「自分は霊性が高まっていないのではないか」「自分には無理なんじゃないか」と悩むことがあります。ゆっくりとした変化は、気づきにくいものです。変化は目に見えないところで起こっているので、不安になることもあると思います。
どうすれば霊性が高まるのかを考えること自体は、悪いことではありません。けれど、悩み続ける必要はありません。
なぜなら、どうすれば高まるかを考えるのは、教える側の仕事だからです。指導者が「これをやれば高まる」と言うのなら、それを信じて、ただ行う。それだけです。結果を計るのは、こちらの役目ではありません。
ヨーガの聖典『バガヴァッド・ギーター』にも、同じことが説かれています。
あなたには、為すべき行為に励む権利があるだけで、その結果を求める権利はない。
成功と失敗を等しいものと見なして、行いなさい。その心の平らかさを、ヨーガという。
行為に専念し、結果は手放す。成功も失敗も、価値は等しい、という教えです。
私たちは結果を求める社会の中で暮らしているので、物事を「成功か、失敗か」という結果で判断する癖がついています。けれど、自分の成長という視点で見ると、成功も失敗も、ともに価値のあるものです。
結果を気にしていては、行為に集中できません。結果を気にせず、教わったことを教わったまま行う。それが修行なのです。
成長していないと感じたら、2つを見直す
それでも「成長していない気がする」と悩むときは、次の2つを見直してみてください。
- 指導者の教えを信じているか(意識を見直す)
- 教えの通りに行っているか(行為を見直す)
結果を気にするのではなく、意識と行為、どのように修行に向き合っているかを見直しましょう。
当室の「心を見つめる・インナーチャイルドを探す」という教えの場合、その過程では、一時的に感情が乱れ霊性が下がることがあります。しかし、その時間はさらなる霊性向上に必要な時間です。
指導者は、目先の小さな変化ではなく、長い目で、その人がどうすれば成長していけるかを、常に考えています。目先を気にせず、教えを信じ、行為に専念することです。それでも悩みが消えなければ、その悩みがあること自体を指導者に相談して、ともに取り組むのもよいと思います。
「信じきれない」ときは、心を見つめる
先ほど「信じるのは難しい」とお伝えしました。「信じて行う」と言われても、どうしても「そうは言っても」と疑問が出てくる。そういうこともあると思います。
頭では「正しいだろう」と思えるのに、どうしても素直に信じられない。そういうときは「どうしてそう思うのか」、心の中を見つめましょう。変えたいのに変えられない、苦しくなる考え方・感じ方・行動の奥には、インナーチャイルドがいます。
私たちは、インナーチャイルドの癒しという技術を持っています。信じられない自分を責めるよりも、まずは信じられない自分を認めて、変えていけばよいのです。
信じられないことは、悪いことではありません。そんな自分に気づくこともまた修行であり、気づいたこと自体が、成長の一つです。
インナーチャイルドそのものや、その癒しについては、こちらで詳しくお話ししています。
→ インナーチャイルドとは何か ─ 心理学で分かりやすく解説
→ インナーチャイルドの癒しと霊性向上
私の場合 ─ 信じきれずに、遠回りした
偉そうにお話ししてきましたが、私自身、師匠の教えを信じきれずに、ずいぶん遠回りをしてきました。
師匠のもとで学び始めてしばらくした頃、師匠は修行の一つとして、インナーチャイルドの癒しを取り入れました。けれど、その頃の私はそのやり方を理解できず、「師匠の教えだけでは価値観は変えられない」と考えて、自分で別の方法を探し回りました。
今振り返ると、「師匠を信じきれずに歩んだ遠回り」だったと思います。
とはいえ、その遠回りにも、得るものはありました。心について深く学ぶことができ、その知識は今、霊性向上の指導に役立っています。
私は、信じることのほかにも、霊性を下げるインナーチャイルドを多く抱えています。霊性向上にはあまり向いていない性格と言ってもいいくらいですが、遠回りの中で、自分自身のインナーチャイルドを癒し、少しずつ性格を変えることができました。
先ほどお伝えした「成功と失敗の価値は等しい」は、結果を求めるな。という話ですが、私ように、たとえ失敗だったとしても、その経験から得るものはあるのだと思います。
まとめ ─ 信じて、行う
法然上人の一枚起請文は、信じることの大切さと、難しさを教えてくれています。
霊性向上の勉強を始めた頃には、まだ信じる力が育っていません。信じられなくて当たり前です。
まずは、疑わず、盲目にもならず、「いつか信じるということが分かる」と興味をもって取り組むことです。経験を積んで霊性が高まるとともに、信じる力は育っていきます。そして、信じたうえで、さらに行う。その行為によって、霊性は強く引き上げられていきます。
勉強を続けて、自分が成長していないと悩むことがあれば、意識と行為を見直すことです。
- 指導者の教えを信じているか
- 教えの通りに行っているか
そして、もし、信じられない理由のインナーチャイルドや、教えの通りに行えない理由のインナーチャイルドを見つけたら、それを癒して、修行に取り組みやすい自分になりましょう。そのうえで修行をすることで、霊性はさらに高まっていきます。
霊性の全体像については、こちらで詳しくお話ししています。
→ 霊性とは何か ─ 目には見えない魂の話